コラム

戦争の不安の時代に求められる新しい考え方
柳澤 協二(NPO法人国際地政学研究所 理事長 )【2022.11】

問題を考える視点

ロシアのウクライナ侵攻に始まり、北朝鮮のミサイル発射、米国下院議長の台湾訪問を機に激しさを増す中国の軍事演習など、国際情勢の不安定化が顕在化し、多くの日本人が戦争の不安を実感している。

政府は、敵基地攻撃を含む防衛力の抜本的強化を唱えている。民間能力の活用や防衛費の財源をどうするかといったテーマも含め、そこには多くの課題があると認識される一方、防衛力強化の方向性は、やむを得ないものと受け止められ、世論の支持もある。

戦争が起きないとは言えないからには、「戦争に備えなければならない」という視点が生まれるのは、自然なことだろう。他方、戦争は自然災害と違って人間の意思で起きるものであるから、「戦争を防ぐためにどうすればいいのか」という視点も生まれるはずである。ただ、日本の国会やメディアでは、その視点からの議論がほとんどない。

考えるべきことは、第1に、政府の政策が、「戦争に備える」観点から見て矛盾のないものなのかどうか、第2に、「戦争を防ぐための他の手段」はないのか、ということだ。

抑止に偏る政策・・・防衛栄えて国滅ぶ

まず、戦争に備える政策について見てみよう。新たな防衛政策の焦点は、「敵基地攻撃能力」である。ミサイル技術の向上によって迎撃が困難となるなか、発射前に敵のミサイル基地を破壊する必要があるという論理だ。いくつかのミサイル基地を破壊すれば、そこから来るはずだったミサイルを防ぐことはできる。だがそれは、敵のミサイル戦力の一部でしかない。残ったミサイルが報復のために飛んでくる。また、敵の本土にあるミサイル基地を攻撃すれば、日本の本土も報復の対象になる。これが抑止力と言えるのか。

敵の第2撃から、いかにして国民を守るのか。ウクライナに見るように、ミサイルから安全な場所はない。「戦争に備える」とは、相手を攻撃する兵器を持つことではなく、避けられない被害に耐えることであるのに、政府にはその視点がない。

防衛費の増額も、必要な積み上げの結果なら仕方がないが、正面装備にばかり目が向いている。装備を増やせばヒトも増やさなければならないが、少子化傾向のなかで自衛官増員は難しい。高額な装備を買えば、維持費も高騰する。

政府の有識者懇談会では、防衛を総合的国力の観点で位置づけようとしているが、すでにGDPの270%の借金にまみれた財政危機のなかで防衛費を大幅に増額すれば、「防衛栄えて国滅ぶ」ことにならないのか。そのバランス感覚が欠けている。

政府が追求する方向性は、抑止という目的の面でも、財政的実現可能性の面でも無理があると言わざるを得ない。

では、どうするのか。政府を批判するだけでは戦争の不安をなくせない。今日の日本に欠けているのは、その視点である。それは、護憲を目指す市民運動にも該当する。防衛力増強だけで戦争を防げないように、平和を訴えるだけで戦争がなくなることはない。

抑止と安心供与

抑止deterrenceとは、「戦争すれば手痛い損害を与える」という脅しによって、戦争を思いとどまらせる作用である。日本の政治家が誤解しているように、「ミサイルを持てば抑止力が加算される」といった単純な足し算ではない。その間に相手が2倍のミサイルを持てば「抑止力」は低下する。

抑止とは相互作用であり心理的作用なので、そこには、誤算の余地がある。相手がこちらの思惑通りに認識する保証はない。また、「損害を受けても譲れない」と考えるときには、抑止は破綻する。

そこで、抑止とともに、安心供与reassuranceという概念が使われる。これは、「相手が戦争に訴えても譲れないと考える欲求」を害さないことを認識させ、戦争の動機をなくすことである。

例えば台湾問題について言えば、中国が譲れないのは「台湾の分離・独立」である。米国が譲れないのは「武力による台湾の現状変更」である。台湾世論は、大陸との統一を望まないが、戦争してまで独立を宣言しようとは思っていない。何よりも、米中台いずれの当事者も、できれば戦争はしたくないと思っている。戦争は相互に目的達成の手段であって戦争自体が目的ではない。ここに、安心供与の機会がある。

台湾有事で最も影響を受けるのは、ほかならぬ日本なのだから、その機会を逃していいはずはない。だが、日本の政治にもメディアにもその視点が見られない。防げるはずの戦争は無駄な戦争である。無駄な戦争で一人の命も失ってはいけない。

米国は、「ウクライナ防衛に米軍を派遣しない」と宣言していた。「ロシア軍と戦争すれば世界戦争になる」ことを恐れたからである。それは、中国相手でも同じことだ。つまり、抑止の前提となる大国間の信頼関係が破たんしている。我々が問われているのは、「世界戦争を覚悟するか、米国が助けに来ないか」という究極の選択である。どちらも選択できないのだから、日本は、戦争を回避する独自の発想を持たなければならない。それは、右でも左でもなく、政治が考えなければならない最大の課題である。