ひろば

背骨を欠いたグランドデザイン
大沢真理(東京大学名誉教授)

6月7日に岸田内閣は、「経済財政運営と改革の基本方針2022」(骨太の方針)とともに、「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」(以下、グランドデザイン)を決定した。「人への投資」がその中心的な柱であり、マスメディアでは「資産所得倍増プラン」が注目された。

岸田首相は、昨年9月の自民党総裁選挙中の発言や、10月8日の所信表明演説によれば、格差の改善に取り組むかに見えた。いわく、「富めるものと富まざるものとの深刻な分断」、「令和版所得倍増プラン」を進め、金融所得課税を強めて(「一億円の壁」の打破)、分厚い中間層を復活させる、「分配なくして(次の)成長なし」などの発言である。

ところが、おおげさに「岸田ショック」とも呼ばれた株価の下落をうけて、早くも10月10日にはテレビ番組で、当面、金融所得課税には触らないと表明した。「腰」がなかったものに「腰砕け」の表現は当てはまらず、株価下落という「塩」の一振りで縮みあがった顛末にてらすと、ナメクジだったのか、という連想が浮かぶ(ナメクジさん、ごめんなさい)。

そしてこの6月には、「倍増」されるべき所得が「資産所得」に限定されてしまった。「新しい資本主義」が“新しくない”ことや、政策手段が空っぽであることは、すでに複数論者から指摘されている。6月のグランドデザインで私が注目するのは、「格差」と「貧困」が切り離され、貧困は課題とすらされていない、という点だ。

12月6日の所信表明演説でも、年初の『文藝春秋』誌への緊急寄稿でも、また施政方針演説でも、首相は「格差や貧困が拡大し」と述べており、格差と貧困は一体ないし一つながりの課題と捉えられていると、読むことができた。

一般に貧富の格差については、富裕層、中間層および所得下層のそれぞれのあいだの格差が着目される。いっぽう貧困としては絶対的貧困と相対的貧困が区別され、前者は主としていわゆる途上国(中所得国を含む)の課題である。これにたいして相対的貧困とは、中間層から引き離された所得下層の存在であり、持続可能な開発目標1「貧困撲滅」のターゲット2では、その削減が高所得国についても求められている。

ところでグランドデザインでは、本文で35ページにわたる文書のなかで、「格差」は巻頭から主要課題とされている。いっぽう「貧困」は、一度だけ、第26ページに、コロナ禍で「貧困を抱える世帯の生活が厳しくなる」という認識として登場する。だが、取り組みの対象は「貧困」ではなく、「孤独・孤立」であり、取り組む主体はNPO等とされている(政府はそれを支援する)。

顧みれば首相は12月8日に、西村智奈美立憲民主党幹事長の代表質問にたいして、相対的貧困の指標が、「我が国…にはなじまない」と答弁していた。質問と答弁の当該部分は以下の通りである。

西村智奈美…「格差と貧困の存在をようやく認めた岸田総理には、その解決に取り組む義務があります。…残念ながら先進国の中でも高いレベルにある相対的貧困率の削減に数値目標を掲げて取り組むべきと考えますが、いかがですか。」

岸田文雄…「相対的貧困率は、高齢化が進めば、年金暮らし等で相対的に所得の低い高齢者層が増えることで高まることになります。このため、貧困を表す指標として、我が国の数値目標とすることにはなじまないと考えています。」

 

答弁はこれだけで、指標はともかくとして、貧困の削減に取り組むつもりがあるのか言明しなかった。この答弁は端的にお粗末である。そもそも、高齢層の貧困率が現役層や子どもよりも低い国は、経済協力開発(OECD)諸国で稀ではない。これにたいして日本では、高齢層の貧困率が現役層および子どもよりも高く、とくに高齢女性で高い。

高齢化が全人口の貧困率をおし上げるのは、高齢層の高めの貧困率が低下しない、という条件のもとである。岸田首相の答弁は、高齢者の貧困をいっそう削減することに、取り組むつもりがないと宣言したに等しい。つまり“貧乏ばあさん放置”である。

うえに触れた『文藝春秋』への緊急寄稿でも、「格差や貧困」の拡大について「欧米諸国を中心に」と述べ、日本の問題ではないかのようだった。そしてグランドデザインは、貧困問題をほぼネグレクトした。

目を転じると欧州連合は、すでに2013年に、人、とくに子どもへの投資を中心課題とする「社会的投資パッケージ」を発出していた。政策ターゲットの大部分は、貧困と社会的排除の克服である。その背骨は、低所得層を底上げすることが、人的資本投資(教育訓練)を増強し、イノベーションを促して成長につながるという、「ボトムアップ経済学」である。同様の見地に立つ分析が、OECDや国際通貨基金のワーキングペーパーなどで発表されている。

岸田グランドデザインは、「待っていてもトリクルダウンは起きない」とも述べるが、ボトムアップの語は見られない。そこで「貧困」がネグレクトされている点は、グランドデザインが背骨を欠くことを示す。これでは、分配戦略としてスタート地点にも至っておらず、成長戦略としても期待できそうにない。

2022.8.12