コラム

参院選後のディストピア(近未来暗黒小説)/元文部科学事務次官 前川喜平(現代教育行政研究会代表)【2022.7】

2040年の今から振り返れば、日本が暗黒時代に転落する引き金を引いたのはあの参院選だった。

2022年の参院選で自民党は大勝し、岸田首相は「国民の圧倒的な信任を得た」と胸を張った。公明党、日本維新の会、国民民主党を含めた改憲4党の議席は参議院総議席の7割を占めるに至った。

前川喜平 元文部科学事務次官

そのころ、アベノミクスの悲劇的な末路が日本経済と国民生活を襲っていた。岸田首相と黒田日銀総裁が無為無策を続ける中、米欧との金利差は一層拡大し、円安はついに1ドル=150円を超え、物価高騰に拍車をかけた。実質賃金は下がり続け、貧富の差が急拡大した。子どもの貧困率は20%を超え、ひとり親世帯の貧困率は60%を超えた。子どもの自殺は年間500件を超え、虐待死は年間100件に達し、親子心中で死んだ子どもは年間30人を超えた。

一方、岸田政権の資産所得倍増プランの下、円安の進行を見越して米欧への投資を増やした富裕層は文字どおり資産所得を2倍にした。金融所得課税の強化については、自民党税制調査会が毎年「引き続き検討」という方針を繰り返し、議論を封印し続けた。そのことが富裕層の資産増を一層助長した。

防衛予算は毎年1兆円ずつ増加し、その財源は「防衛国債」の発行と社会保障や教育の予算削減で賄われた。小学校の35人学級計画は中断され、教職員の5割は非正規任用になった。日本の防衛産業の育成・強化と防衛装備の海外移転(つまり武器輸出)は、「国家安全保障戦略」や「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)に書き込まれ、政府の成長戦略の柱となった。ウクライナ戦争が長期化する中、日本政府はウクライナに「防衛ODA」を供与し、その資金はすべて日本の軍事産業に還流した。証券会社は軍事産業関連の投資信託の新商品を次々に開発。富裕層に人気の金融商品となった。

衆議院と参議院の憲法審査会は着々と審議を進め、緊急事態条項、九条無効化条項などの具体的な改憲案がまとめられていった。教育条項には、教育環境の整備だけでなく、教育理念として「國體の尊重」と「国家への奉仕」が書き込まれた。

立憲野党は必死に抵抗したが多勢に無勢、改憲4党の賛成により改憲案は両議院からついに発議された。立憲勢力は全国で憲法を考える集会を開き、改憲案の危険性を訴えたが、安倍晋三元首相を中心とする改憲派がテレビやネットで洪水のような広告宣伝を行ったことが功を奏し、国民投票の結果どの項目も過半数の賛成投票を獲得して改憲が成立した。

岸田政権は改憲の成立に合わせて、緊急事態法案、安保法制改正法案、教育基本法改正法案などを国会に提出。立憲野党の抵抗もむなしくこれらの法案は次々に成立した。

教育基本法改正に伴って学習指導要領が改訂され、道徳科の授業時数が倍増されるとともに、教えなければならない徳目に「國體の尊重」「国家への奉仕」「天皇への敬愛」「国防の心構え」などが追加された。歴史教育においては、必ず天照大神、瓊瓊杵尊、神武天皇、神功皇后について教えなければならなくなり、南京虐殺事件や従軍慰安婦を載せた教科書は検定を通らなくなった。

自民、公明、維新、国民4党連立内閣で、安倍晋三氏が3度目の首相の座についた。菅義偉氏は副総理・財務大臣となり、日本維新の会は防衛大臣のポストを得た。

その矢先に富士山が突然噴火。安倍首相は直ちに緊急事態条項を発動して国会から立法権を奪い、居住移転の自由を制限する移動制限令、主要食糧を配給制にする食糧統制令など、人権を制限する緊急政令を矢継ぎ早に公布した。これに反対する集会やデモが全国で起きると、集会やデモを禁止する示威行動禁止令を出した。

首相官邸前を取り巻く抗議行動には100万人の人が集まったが、右翼団体の挑発により流血の事態になるや自衛隊が治安出動して抗議する市民を排除した。安倍政権はこの事件を反日勢力によるテロと断定。テロ対策を口実に警察に広範な逮捕権限を与える治安維持令を公布して、民主派を次々に逮捕した。さらに、すべての報道機関を国家管理下に置く報道管理令を公布。民主派を「反日分子」「非国民」と呼ぶコメンテーターが連日ワイドショーに登場した。

この間にも地球は温暖化を続け、COP会議では毎年脱炭素が叫ばれたが、日本政府は石炭火力発電をやめようとはしなかった。日本列島は津軽海峡まで亜熱帯となり、旱魃と洪水が各地を襲った。幾つかの島嶼国が消滅したが、日本政府はそれらの国からの難民を受け入れようとしなかった。

ウクライナ戦争の長期化で中東におけるロシアの軍事的プレゼンスが弱まると、この機に乗じてアメリカがアサド政権を倒すためシリアに攻め込んだ。すると安倍首相はすかさず存立危機事態を宣言し、集団的自衛権の行使だと主張して参戦した。メディアはこぞって参戦を支持し、シリアでの自衛隊の「英雄的な戦いぶり」を連日報じた。戦死した自衛官は次々に靖国神社に合祀されたのだった。

【前川喜平 現代教育行政研究会代表・プロフィール】

1955 年 奈良県生まれ。1979 年東京大学法学部卒業、文部省に入省。大臣官房長、初等中等教育局長などを経て、2016 年 文部科学事務次官。2017 年退官。現在、現代教育行政研究会代表、日本大学文理学部講師。福島市と厚木市で自主夜間中学のスタッフも務める。著書に『面従腹背』『権力は腐敗する』(いずれも毎日新聞出版)、『コロナ期の学校と教育政策』(論創社)など。