コラム

【市民連合の要望書11】横山由美子さんインタビュー「地域にふさわしい『おらって=私たち』の電気をつくる」

立憲野党の政策に対する市民連合の要望書

11.原発のない社会と自然エネルギーによるグリーンリカバリー
地球環境の危機を直視し、温暖化対策の先頭に立ち、脱炭素化を推進する。2050年までに再生可能エネルギー100%を実現する。福島第一原発事故の検証、実効性のある避難計画の策定をすすめる。地元合意なき原発再稼働は一切認めない。再生可能エネルギーを中心とした新しいエネルギー政策の確立と地域社会再生により、原発のない分散型経済システムをつくりあげる。

横山由美子(よこやま・ゆみこ)

新潟市生まれ。大学で幼児教育を学び、卒業後は幼稚園教諭として働く。3人の子どもを育てながら、新潟YWCAでの活動や反原発運動を続けてきた。2011年の東京電力福島第一原発の事故後、新潟で市民による市民のための発電事業を立ち上げ、自然エネルギーの地産地所有を実践。
一般社団法人おらってにいがた市民エネルギー協議会副代表理事。公益財団法人日本YWCA評議員・元副会長。新潟YWCA会長。敬和学園高等学校・大学理事。ナインにいがた共同代表。

 


生まれ育った新潟で、太陽光発電を使った市民エネルギー事業に取り組む横山由美子さん。20代の頃、「実母よりも価値観が似ていた」という義母の勧めで、キリスト教を基盤とする女性団体「YWCA」に加入、原発を含むすべての核に異を唱え、活動してきた。2007年の新潟県中越沖地震、2011年の東日本大震災を目の当たりにし、「コンセントの向こう側を知り、自分ごとにすることは、民主主義そのもの」という横山さんに話を聞いた。



ーー「原発に反対」というのは、若い頃からですか?

頭では「原発はないほうがいい」と分かっていたんですが、ある時、夫の母であるキミイさんが「原発は駄目よ」とはっきりと口にするので、びっくりしたのを覚えています。30年以上も前ですから、そんなこと明言する人はあまりいなかったんです。

大学で幼児教育を学び、卒業後は幼稚園教諭として働いていました。22歳で結婚して夫の転勤で新潟県内を転々としていた時期も、ずっとYWCAで活動をしていたキミイさんが何かに付けて「今度、こんな講演会があるのよ」と誘ってくれました。キミイさんが「原発に反対」ときちんと言葉にできるのも、YWCAでの活動を通じて学んできたからこそなんだな、私も勉強しなきゃいけないな、と思わされていました。

子育てする中でも、キリスト教は大きな存在でした。例えば、子どもが小学校に上がると、「君が代・日の丸」について自分の頭で考えなければならない事態になりました。先の戦争を学んでいくと、自分の子どもに対して「日の丸に頭を下げ、君が代を歌いなさい」とは言えない。担任の先生に「どうか強制しないようにお願いします」と伝え、「日の丸は掲揚するのではなく、せめて立て掛けてもらえませんか」とお願いしました。そうしたことが、最初のアクションだったかもしれません。

どんなに切り離して考えたいと思っても、巻き込まれていくのが政治ですよね。自分で考えて、声を上げていくことが大事なんだ、とキミイさんから学びました。
信仰のある・なしは、あまり関係ないとは思いながらも、キミイさんと私の関係性は「嫁姑」というよりも、同じ信仰者として平らな関係を持てたのだと思います。キミイさんは私のことを「嫁」や「娘」とは言わず、「由美子さん」と紹介してくれるような人でした。


ーー原発について反対するようになったのは?

本当に身につまされたのは、2007年の新潟県中越沖地震でした。
柏崎刈羽の3号機で火災が発生し、もくもくと煙が上がっている様子がニュースで流れました。コンクリートの地面はガタガタ、陥没したり亀裂が入っていて、放射能も漏れました。
本当に衝撃を受けて、「放射性ヨウ素が漏れた!」と書いた模造紙を手に、新潟駅前に向かいました。他のグループのみなさんがスタンディングする時に「私も入れてください」と言って。
それまでは、やはりどこか「大丈夫だろう」という気持ちがあったんですよね。

刈羽村でお米づくりをしながら、反原発の活動をしている知人の言葉を思い出すと今でも胸が苦しくなります。その方は東京に働きに出た子どもたちに毎年お米を送っていたんですが、事故後、「今年も同じように送ったんだけど、『もしかしたら放射能が入っているかもしれない。気持ち悪かったら捨ててね』って伝えたの」と、話してくださいました。そうした一人ひとりの苦しみを生んでしまうのが、制御なんて不可能な「核」なんです。

専門家たちは「5重に防護するから放射能は絶対に漏れない」と繰り返してきました。私たちは「人間のすることに『絶対』はない、漏れる可能性はある」とずっと指摘してきました。本当に悔しくて、それ以後、もっと多くの市民に問題を知らせる必要を考えイベントを開催したり、新潟県の原子力行政の担当部署に申し入れにいったり、技術委員会や県議会を傍聴したり、といった活動を続けてきました。

また、日本YWCAは1970年から原発を含めた核を否定するという立場を明確にしてきたんですが、世界YWCAはそうではありませんでした。私が日本YWCAの副会長だった2015年、タイで行われた世界総会で韓国YWCAと核問題のワークショップを共催し、「核兵器/原子力エネルギーを同等に否定する」という決議案を出し、採択されました。
原発事故のことはもちろん、いかに人々が分断され、ふるさとに帰った人も帰れない人も苦しんでいることなどを伝えました。それが参加者の心に響き、世界YWCAとして原発を否定する立場を明確にできたことは、素晴らしいことでした。


ーー自然エネルギーの普及活動にも取り組むようになったのは3.11がきっかけですか?

そうです。福島から新潟に避難される方もたくさんいらしたし、新潟でもいろんな講演会や学習会が開催されました。2014年に「にいがた市民大学」と新潟市のスマートエネルギー推進室が呼びかけ、「市民発電勉強会」が立ち上がりました。
そこに集った人たちと「どんな新潟にしていきたい?」と話し合ってきました。みんなの中には「このままじゃいけない、変えなきゃいけない」という思いが強くあり、「原発反対」だけでなく、ライフスタイルも含めこれまでとは違うやり方を実践してみせていこう!と、「おらってにいがた市民エネルギー協議会」を立ち上げました。

事業を始めるには素人ばかりでしたから、いろんな壁にぶつかりました。
まずは太陽光パネルを設置する場所を探すこと。ある程度の大きさで、農地ではない場所って、そんなに多くありません。市民や新潟市・村上市の協力があり、現在は40か所に設置しています。
次に資金です。市民がお金を出し合うだけでは足りませんから、銀行に融資のお願いに行きました。何億というお金を借りるのに「責任者なしでお願いします」「担保になるのは太陽光パネルくらいしか…」と無理難題を言って困らせました(笑)
でも、新潟の地方銀行や信用金庫ですから、私たちと同じ「新潟を愛する心」でもって、支援を決めてくれました。
そして2015年には「おらって市民エネルギー株式会社」、2017年には「おらって市民ソーラー株式会社」を設立させました。「おらってにいがた市民エネルギー協議会」は、新潟の自然エネルギーや新しい社会のあり方を構想するプラットフォームでありたいと願い歩んでいます。


ーー電力の小売自由化が可能となる制度改正によって、各地で市民エネルギーが広がりました。

ただ、日本の再生可能エネルギーは世界標準とは言えない状況です。呼び水となったFIT(固定価格買取制度)もどんどん改定され、普及を妨げるブレーキになってしまっています。電力自由化後に生まれた私たちのような事業者は送電線を持たないので、電気を売るには電力事業者の送電線を借りることになります。クリアしなきゃいけない色んなことが、小さな事業者には大きな負担になっています。
また、菅首相が「2050年までにCO2ゼロ」と打ち出しましたが、それを名目に原発を再び動かそうとしているのではないかと訝しんでいます。「世界から遅れを取るどころか、逆走するのですか」と強く言いたいです。

同じ核の問題として、ついに核兵器禁止条約が発効されましたが、「核の傘」を理由に批准しない日本政府に憤りを感じています。いつまで「核の傘」という幻想を守り続けるのか。私たち一人ひとりが「おかしい」と気づいて声を上げないと、政府の態度を変える事はできないと思うんです。

すべての課題は、賛成/反対 の対立ではなく、対話や熟議が必要だと思っています。原発に賛成でも反対でも、ひとたび事故が起きれば避難しなくてはいけない。
市民エネルギーについても、ただ市民が発電すればいい、とは考えていません。なぜ電気が必要なのか、また地球温暖化は喫緊の課題ですが、持続可能な社会のあり方をどう考えるか、そんなことを一人ひとりが問い返し、話し合いや実践のきっかけをつくったりするのも「おらって」の使命の1つです。

私たちは、電気がどうつくられ、どういう風に流れてきているのか、あまりにも無関心でした。「エネルギーの地産地所有」は、豊かとは言えない地域が大都市が消費する電気をつくってきたという搾取構造や、独占的な電力供給体制へのオルタナティブだと思うんです。
コンセントの向こう側について考えることは、民主主義の実践です。暮らしに必要なエネルギーについて省エネやライフスタイルも含めて考え、自分たちのものにしていく、というのが「おらって=私たち」の方法だと思っています。

日本YWCA

おらってにいがた市民エネルギー協議会