コラム

【市民連合の要望書3】永井玲衣さんインタビュー「諦念や絶望から抜け出す第一歩」

立憲野党の政策に対する市民連合の要望書

3.透明性のある公正な政府の確立
安倍政権下ですすんだ官邸主導体制の下で、権力の濫用、行政の歪みが深刻化している。政府与党による税金の濫用や虚偽、隠蔽により生じた市民の政府への不信の高まりが、効果的な新型コロナウイルス対策を妨げている。透明性のある公平な行政の理念のもと、科学的知見と事実に基づく合理的な政策決定を確立し、政策への信頼を取り戻すことが求められている。内閣人事局の改廃を含め、官僚人事のあり方を徹底的に再検討する。一般公務員の労働環境を改善し、意欲と誇りをもって市民に奉仕できる体制を確立する。国民の知る権利と報道の自由を保障するために、メディア法制のあり方も見直し、政府に対する監視機能を強化する。

永井玲衣(ながい・れい)

立教大学兼任講師。専門は哲学・倫理学。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を行う。D2021運営。連載に、『晶文社スクラップブック』「水中の哲学者たち」、『HAIR CATALOG.JP』「手のひらサイズの哲学」、雑誌『ニューQ』(セオ商事)など。

    


いろんな場所で「哲学対話」のファシリテーターとして活動しながら、既存のマスメディアがなかなか伝えない政治や社会問題を扱うインターネットメディア「Choose Life Project」のMCや、2021年3月に予定されている「D2021」の運営にかかわる永井玲衣さん。
「ほんとにこれでいいの?」と疑問を持つこと、みんなで「問い」を共有すること。それが、日常と社会を変えるはじまりになる、という永井さんに話を聞いた。



――「Choose Life Project」など、社会問題にかかわったり、政治的な話題で発信する側に身を置く理由はなんですか?

ふだん私は、「哲学対話」という、参加者の中から出てくる哲学的な問いをみんなで話し合ったり、考えあう「場」をつくっているのですが、哲学対話にしても、「Choose Life Project」のMCにしても、きっかけは、誘われたり、たまたまだったりして、「巻き込まれた」からなんです。哲学対話も、「哲学対話やるぞ!」とか、「よっしゃ次は見ず知らずの人と対話するのだ!」というのではなくて。

私は、ジャン・ポール・サルトルの「アンガジュマン」という言葉に非常に感銘を受けていて、日本語だと「社会参加」「政治参画」などと訳されるのですが、「私はこの場に巻き込まれている、だけれども、その『巻き込まれている』ということに気づいたら、自らをまたその場に『巻き込んでいく』こと」という、ちょっと不思議な概念なんです。「私たちはそもそも社会に巻き込まれちゃってるから、どんどん身を投じていこうよ」という感じです。
だから、哲学対話にしても、社会参加にしても「自分にははっきりしたやる気や主体性がないから参加しても迷惑かけちゃうかも」みたいに言ってくれる人がいるんですが、全然そんなことないですよ、と思います。むしろ、そんなわかりやすい「主体」なんてあるのかな?というのも疑問で。

哲学って、急いで結論を出したり、偉そうに振る舞ったりするものではなくて、ひたすら「どういうこと?」「わからんわからん」と悩むことです。
私は、誰よりも先に「わからない」と言える人でいたくて、画面の向こうのみなさんと「一緒に悩む人」としてなら、「Choose」の進行役も引き受けられると思いました。
「Choose」の良いところは、タイトルの多くが「問い」になっている点です。「“わたし”にとっての戦争責任とはなにか」「学問の自由とは何か?」「メディアは誰のためにあるのか?」と、「私の問い」だったり、多くの人と共有できる「問い」になっているところが素敵だなと思います。
私は、「問う」ことの敷居をもっと低くしたいし、一緒に悩みたいし、一緒に考えたい、という思いで、いろんな活動をしています。



――哲学対話って、どういうものですか?

大学の先輩に誘われて初めて哲学対話に参加して、その場にいる私たちをつなぐものがあると気づきました。それは「問い」だったんですね。それも、「哲学的な問い」というところが重要です。10代の頃、私はひとりで「問い」を抱えていたんだな、と気づきました。

「土地を誰が一番多くもらうか」というような利害が絡むような問いや、「あなたはA派?B派?」のような選択させるような問いは、分断を生みますが、「ひらかれた問い」のもとで人々が「分からない人」として集う、というのは、私にとってすごく安全な場だったんです。
主張をぶつけ合うのではなくて、自分がどんな思い込みをしているのか、どんな前提を持っているのかを掘り下げていく試みです。

哲学対話は、「アジール(逃げ場)」でもあって、哲学する時間は本当に変な時間なんですよ。安全な場なのですごくリラックスしているんですが、「場をケアする」という意味で、神経を張り巡らせてもいる。みんなの中に「問い」が据えられた中で、不思議な連帯感があるんです。

おもしろいのは、ただアジールであるだけではなくて、どんどん日常を侵食していくところなんです。
学校の生徒たちは、「学校の帰り道や、お風呂に入ってるとき、こんなこと考えたんだよ」って言ってきてくれます。それって、哲学対話での実践が日常に侵食している証拠なので、すごく面白いなと思います。
子どもたちは、15分くらいで40個くらいの「問い」を出すんですが、大人は15分経って出てくるのが「年金に対する不安」みたいになっちゃうんです。

ですが私は、「誰もが問いを持っている」という立場でいよう、と決めています。
「問い出しの時間」をすごく大切にしていて、1時間かけることもあります。「問い」を取り戻す練習になるんです。
「年金不安」も実は哲学的な問いで、「変な問い」として捨てるんじゃなくて、しつこく「なぜ私たちは年金のことが気になってしまうのか」と、「みんなの問い」にしていく。すると、話せるんですよね。
そうやって「問い」を変えていくのが、哲学者というかファシリテーターの役割で、参加している人たちも、「そうか、みんなのものにすればいいんだ」と変わっていく。その場だけの「変な時間」が、日常を変えていくんですね。



――コロナ禍で、何を感じましたか?

哲学対話って、そもそも身体を伴う対話なんです。人間って、奥行きのある存在ですよね。声色や息遣い、隣の人の汗のにおい、そういうのも含めて、単に言葉だけで対話しているわけじゃないんだ、というコロナ禍で痛感しました。
ライブやデモのような、非日常の経験のひとつに数えられるようなものだと思います。日常の中に隙間をつくるような時間なんですが、コロナ禍でいろんな隙間がどんどん消えていったじゃないですか。人に会えなくなり、集えなくなって、ライブハウスが閉じられ、演劇や映画が見られなくなって…。

人間って、自立的で理性的で、意志を持って選択できる、という主体的な存在として考えられてきたと思うんですが、私のやっている哲学は、人間はすごく脆弱で関係依存的な存在である、ということをベースに考えます。
その「人間の脆さ」について、コロナ禍でより考えさせられました。「より弱くさせられる人たち」の状況についても、今すぐ具体的に変えられないというもどかしさにも、本当に気が滅入りました。

破綻していたのに、それに気が付かないふりをしていたことが、コロナでより明らかになりましたよね。でも、そんな状態を目の当たりにして「まあそういうもんなのかも、世界って」と無感覚になってしまう。思考することに疲れているんですよね。
ラテンアメリカで、非常に抑圧的な環境にいる子どもたちを相手に哲学対話をしているウォルター・コーハンさんという人がいます。公正さが奪われた社会で、「そういうものだ」「ずっとそうだった」とつぶやく人々とともに「問う」実践を続けています。何かが一瞬で変わったり、人々が選択できるようになるわけではないんですが、「ずっとそうでしょ、どうせ」というところから抜け出す第一歩になり得ると、彼は「問う」ことをすごく政治的な行為だと捉えているんですよね。
いろんな場所や学校、企業などで哲学対話をしていると、本当にそうだな、と思うんです。まず問うこと、そこからなんだ、と思います。

哲学対話を通して、問えるようになること、みんなで考えることって、すごく政治的な行為だと思っています。ほんとに、社会を変えるムーブメントだと思っているんです。
ソクラテスみたいに、「しつこい!」ってうざがられても、問うことをやめない仲間を増やしていきたいんです。政府の不正や政治の腐敗に対しても、しつこく問いを投げかけたいし、その先鋒であるべきマスメディアもそうあってほしい。権力監視とか不正追求はもちろんのこと、私たちと一緒に、私たちを巻き込む形で「問い」を発して欲しいと思うし、多くの人と共有できるひらかれた「問い」を持ちたい、と望んでいます。

Choose Life Project

自由に語るためのインターネットメディア。時事問題に関する生討論番組や他団体とのコラボ企画などをYouTubeで配信
https://www.youtube.com/channel/UCmNMnTpz7kk_D3oGcx1XvrQ

D2021

震災(Disaster)から10年(Decade)という節目にさまざまなDをテーマにしたムーブメント。2021年3月13日と14日に日比谷公園で無料フェスを開催予定。
https://d20xx.com/